『古寺巡礼』

彼女は神々しい程に優しい「魂の微笑み」を浮かべていた。それはもう「彫刻」でも「推古仏」でもなかった。ただ我々の心からな跪 拝に値する一その跪拝に生き生きと答えてくれる一1つの生きた貴い力強い、慈愛そのものの姿であった。あの肌の黒いつやは実に不思議である。この像が木でありながら銅と同じ様な強い感じを持っているのは、 あの艶のせいと思われる。又この艶が微妙な肉つけ、繊細な面の凸凹を実に鋭敏に生かしている。その為に顔の表情なども細やかに柔らかく現れてくる。あのうっとりした眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際光っている様に見え、あのかすかに傲笑んだ唇の辺りにこの瞬間にひらめいて出た愛の表情が実際に動いて感ぜられるのは確かにあの艶のお陰だろう。
あの頬の優しい美しさもその頬に指先をつけた手のふるいつきたい様な形の良さ腕から肩の滑らかな柔らかさもあの艶を除いては考えられない。だから光線を固定させてあるいは殺しあるいは誇大する写真にはこの像の面影は伝えられない。しかし艶がそわ程霊活な作用をなしえるのはこの像の肉つけが実際微妙になされているからである。白鳳時代のものの様に精妙な写実を行っている。顔や腕や肘などめ肉づけにもその感じば深いが、特に体と台座との関連に於て著しい。体の重みをの受けた台座感じそれを被っている衣文の感じなど 実に精妙を極めているのである。ただもう、うっとりと眺めるのみである。 こころの奥でしめやかに静かにとめどなく涙が流れるという様な気持ちであった。ここには慈愛と慈哀との杯がなみなみと充たされている。誠に至純な美しさで、又、美しいとのみでは言い尽くせない神聖な美しさである。

甘美な牧歌的な哀愁の泌み通った心持ちがもし当時の日本人の心情を反映するならぱこの像は又、日本的特質の表現である。古くは『古事記』の歌から、新しくは情死の浄瑠璃に至るまで物の哀れとしめやかな愛情とを核心する日本人の芸術は既に此処にその最も優れた最も明らかな代表者を持っているといえよう。我々の文化の出発点といえるのだ。最初の文化現象を生み出すに至った母胎は我が国の優しい自然だろう。 愛らしい・親しみやすい・優雅なそのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ神秘を持った我が島国の自然は、人体の姿に現ぜばあの観音となる他ない。自然に酔う甘美な心持ちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるがその根はあの観昔と共通に、この国土の自然自身から出ているのである。葉末の露の美しさをも鋭く感受する繊細な自然の愛や、一笠一杖に身を託て自然に溶け合っていくしめやかな自然との抱擁や、その分化した官能の陶酔、飄逸な心の法悦は、一見この観音とはなはだしく異なる様に思える。しかしその異なるのはただ注意の向かう方向の相違である。捕らえられる対象こそ差別があれ捕らえにかかる心情には極めて近く似か依るものがある。母ぞあるこの大地の特殊な美しさはその胎より出た子孫に 同じき美しさを賦与した。我が国の文化の考察は結局我が国の自然の考察に帰っていくことになる。

−『古寺巡礼』より−

弥勒菩薩半跏思惟像

思惟は眠れる如見えても、直ちにそれを実践に移しうる様な頑丈な下肢によって支えられ、大地に根を下ろしてその上で虚空の果てまでも漂いいかんとする思惟、この調和が素晴らしい。一下半身の安定感一 これがなかったら決してその深みを表す事が出来なかったであろう。深い瞑想の姿である。半眼のまなざしは夢見る様に前方へ 向けられていた。ややうつむき加減に腰かけて右足を左の左の膝に乗せ、更にそれを静かに抑える如く、左手がその上に置かれているが。このきっちりと締まった安定感が我々の心を一挙に静めてくれる。厳しい法則を柔らかな線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方は緩やかに曲げて指先は軽く頬に触れている。指の一つ一つが花弁の様に繊細であるが、手全体はふくらして豊かな感じに溢れている。そして頬に浮かぶ援やかな微笑は指先が触れた刹那自ら湧き出た様な自然そのものであった。飛鳥時代の生んだ最も美しい思椎像といわれる。五尺二寸の像の全てが比類なき柔らかい線で出来上がっているけれど、弱々しい所は微塵もない。

指のそり返った頑丈な足を見ると生存を歓喜しつつ大地を駆け回った古代の娘を併佛さぜる。その瞑想と微笑はいかなる苦衷の痕跡もなかった。一切の惨苦を征服した後の永遠の微笑であろうか。『諸々の子等は火宅の内に嬉戯に楽しみ著みて、覚らず、知らず、驚かず、怖れず火来たりて身に逼り、 苦痛己を切むれども、心に厭い患へず、出でんことを求むる心なし。』(「法華教」の一節)=全ての人間は、欲望の赴くまま不安な生活に慣れてしまう。いざ欲望が強烈になって、いかんとも出来なくなっても、その悩み多い現実生活から抜け出る気持ちはない。=

という火宅無情の憂いの声を内に抑えて人間を越える悲愍の微笑をもって有情に救いの手を差し伸べる仏を念じた現世の地獄をしかと見ず、いたずらに夢三昧に耽っているのではない。菩薩にとって見るということは捨身を意味した 地獄のあらゆるものの身に則して化身する。化身即捨身即観世音〜「普門品」一法華教の一部をなす物":(観音が人間を苦悩から救い、仏の教えを広めるというもの)を見ると明らかであろう 〜従っそ苦悩の表情は当然予想される。だがそういう表情は化身即捨身を通して貫通する永遠の法身の内に吸収され摂取されてしまうのだ。そして摂取の上でむし、摂取の刹那に、間髪を入れずあの幽遠の微笑が頬に浮かぶのである。しかもなおも救われぬ悲心をもこめ・・・微笑はおのずから湧く泉の如きもの「我」ならぬもの、そして根源に必ず懐かしさがなければならない懐かしさの感情ーありのままの飾らぬ人間にふと表れる後光(別れの際、振り返ってそれを惜しませる力)の様なものだ。慈悲とは高所よりの同情心や博愛ではなく、もっと身につまされた生の嘆きだろう。善悪を分別せぬ人間のありのままの相に身を沈めでいくのだ。化身の所作である。慈悲の根底にある無限の忍耐、人生を耐えに耐えた挙げ句 ふとあの微笑が湧くのかも知れない極度に内面化ざれたものだ。 微笑の寸前でもあり働芙の寸前である様にも見える。