塔と伽藍と築地と、その奥に紵立するもろもろの仏像が、私を否応なしに招くのだ。美への憧ればかりでなく、何か信心の様なものが次第に芽生えてきて、一年に一度は、参拝しないと気にかかる。殊更に何かを考えるということもなく、只散歩の延長の様なつもりで旅の誘いのままにプラリと家を出る。

獲物を漁る様なつもりで古典の地へ行きたくないものだ。その時その折の直ぐな心で仏像に対すれば。仏像は何の関わりもなく抱擁してくれる。

「月日は百代の過客にして、行き交う時も又旅人なり。船の上に生涯を浮かぺ、
馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々旅にして旅を住処とす。
古人も多く旅に死せるあり。 余もいずれの年よりか、片雲の風に誘われて、漂白の思い止まず・・・・・」

大和古寺巡礼の際に於ける私のご詠歌である。この一説を心の中に呟きながら行くと、 不思議に全ての邪念が晴れるのだ。古寺に関する予備知識や美術的関心、 ないしは古寺巡りにつきまといやすい、一種の虚栄とダンディズムそれら一切を捨てて、ひたすら旅に身を委ねて何者かに誘われるが如〈自然と仏像のもとへ参る。神社や寺院は、俗世間から隔離された神聖な空間でななければならない。

仏寺といえば先ず、仏像と考えがちであるが、仏像だけで神聖空間が成立しないことは上野の束京博物館の陳列室を見れば分かる。又建築だけでも不十分である。

建築は仏像を安置するために建てられているし、建築を取り巻いて境内が有効な空間を形成しているはずなのだ。出来たら空間・寺院・配置・建築・仏像を総合的に見たい。そこに緻密な計画や、効果的な演出を再発見出来たならば、眠っていた美を呼び覚ます事が出来るだろう

学生時代、授業として学んだ日本美術史。それが、仏像との出会いです。それまで全く関心もなく、何も感じなかったので、何故急に興味を抱いたかと問われても自分ですら、理由はわからないのですが・・・巷でよく言われる「出会った瞬間、ビビっと来た」と言う表現が、一番近いところでしょうか。それ以来、京都や奈良への羨望が高まりつつも、なかなか出向く事もままならず。それゆえ仏像に関する本を見つけると、ついつい買ってしまうのですが、いくら読んでも上滑りな浅い知識しか身に付かないものです。・・・
中でも特出して好きなのは、中宮寺の半跏思惟像(リンク)法隆寺の百済観音、広隆寺の弥勒菩薩です。いづれも、飛鳥時代。仏像が造られ始めた初期のものに一番惹かれます。時代の推移に伴い、技法・技術的も高度になり、美術的にも円熟し完成度の高いものになっていきますが、私個人の趣味としては、仏教伝来 間もない頃の飛鳥時代に造られたこれらの像等は、素朴で純粋でありながら、その神秘的な雰囲気、存在感の大きさ・・・引き込まれてしまいそうな、崇高な精神性などを感じ、ただただ無心に、自然と合掌してしまう・・・どんな技巧を凝らした以降のどの仏像にも劣らぬ魂の美しさが内在してるように思えます。