武家の子に生まれたが、13歳で両親を失い、十五歳で浮世絵師歌川豊広の門に入る。36歳の秋、幕府の御馬献上の一行に参加して上洛、東海道を往復することとなった。この時の体験を元に生まれたのが保永堂版「東海道五十三次」55枚である。このシリーズの爆発的な売れ行きによって広重は浮世絵界に不動の地位を手に入れることとなった。売れっ子浮世絵師となった広重は数々の名作を世に送り出すが、中でも江戸を描いた作品は数多く、その総数は1300点に及ぶともいわれる。「名所江戸百景」は広重最後の名作といわれ、安政三年から刊行をはじめ、最晩年の二年余りで未刊で終わっている。初代没後二代広重の補筆によって完成し「一立斎広重一世一代江戸百景」という目録が添えられる。それまでの浮世絵版画は墨線による輪郭線で遠近感を表わす表現方法だったが、広重は墨線を極端に減らし、複数の色板を使い分けたボカシにより遠近感を表現している。従来の浮世絵版画にない表現方法は、木版画の技法を熟知した広重と彫師、摺師との緊密な連携によってはじめて生み出され、名作として後世に長く伝えられることとなった。画面に漂う切々たる抒情、寂廖感にじむ旅愁は、幕末の喧燥期にあって人々の心を和ませた。風景版画のほか、画賛と絵が見事に調和した花鳥版画、四条派に南画や狩野派の手法も加えた気品高い肉筆風景画の分野にも独自の画境を開いた。広重最晩年の揃物「名所江戸百景」は、全百二十図(内一図は二代広重落款、一図は目録)の超大作であり、生涯の画業を総決算する文字通り記念的な傑作である。江戸の市中と郊外とに渡ってすぐれた景観に四季折々の人事や情趣を探ね、新しい名所を発掘、登録した意欲作でもあった。西洋的な遠近法の大胆な応用や、連続し、あるいは切断された時間への鋭い感覚、朝夕の陽の光や夜空に輝く月や星、あるいは地上にともる火影といった光線への鮮新な意識、意外なカッティングやトリミングを駆使した独創的な画面構成などなど、その魅力をあげていけばきりがない。ヨーロッパ近代の画家たち、モネやゴッホやホイッスラーらが、この「名所江戸百景」に衝撃的な影響を受け、絵画芸術の方向を決定的に変えて行ったことは、人のよく知るところである。江戸時代の浮世絵版画が彫りや摺りの技術面においても最高の高みに達したのが、ちょうどこのシリーズが刊行された安政3〜5(1856〜58)年の頃であった。広重は彫師や摺師の表現力を信頼し、彼ら自身の造形面への参加を積極的に許したふしがある。

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