たくさんの人が集まる江戸は商業が栄え、京都や大阪とは違った独自の風俗や文化が花開きました。「士農工商」の階級では一番身分の低い商人の中から豪商という大金持ちが現れ、江戸文化の発展に貢献しました

下町の安全を守る自身番小屋は、町の負担で隣町との境に建てられました。当番制で5人が詰め、町内で軽い犯罪を犯したものを同心に引き渡したり、火事の時には鐘を鳴らして町民に知らせたりする役目を果たしました。一方、木戸番小屋には町で雇った番人がいて、夜10時から朝6時まで通行できないように木戸を閉めたり拍子木を打ちながら火の用心の見まわりを行っていました。

燃えやすい町家、火の用心の知恵

木造の建物が密集している下町の悩みの種は火事。そこで火の用心の為町のあちらこちらに水溜め桶を置き、見張りの為の火の見 を建て、燃えにくい瓦と土で出来た土蔵作りの建物を増やしていきました。更に町の消防団として「いろは四十八組」の町火消が作られ、威勢のよさの伊達男ぶりが江戸名物になりました。

武士よりお金持ち 江戸の豪商

大都市・江戸には大店(おおだな)から行商人まで、様々な商人が溢れていました。この中で特に商売上手で武士にお金を貸すほどのお金持ちとなったのが豪商です。普通の商店の間口が約2.7〜6.0だったのに対して大店の下村大丸は表間口が約65mもあり、江戸見物に来た旅人をびっくりさせました。また材木商として成功した豪商紀伊国屋門左衛門は、節分の夜に大広間にたくさんの人を集め豆の代わりに小判や金銀を撒き散らすなど、桁はずれの遊びをしたといいます。

庶民の娯楽 芝居見物

江戸庶民の娯楽の花形はなんと言っても芝居見物。もっとも人気のあった歌舞伎は、観客が増えると共に役者の給金もうなぎ上りで、正徳年間の女形芳沢あやめを皮切りに続々と千両役者が現れ役者の給料値下げの法令がでるまでになりました。一口に歌舞伎といっても京・大阪は男女のやり取りを表現した「和事(わごと)」江戸は武家の都にふさわしくあら嵐「荒事」というように芸風が異なっていました。

おいらんは江戸のファッションリーダー

江戸の見もののひとつが華竄ゥな花魁道中(おいらんどうちゅう)たくさんのお付のものを従えた花魁が、三枚歯の下駄で外八文字を描きながらゆっくり練り歩く様子はきらびやかなショーとして人気がありました。江戸の女性は花魁と歌舞伎役者の女形のファッションにあこがれ、帯の結び方などをまねて流行を楽しんだそうです

商人・職人

城下町・江戸の繁栄を支えたのが、商人、職人たちです。人口の約50%を占めた町人たちは、江戸全体のわずか16%ほどの土地にひしめき合って住んでいました。しかし下町はいつも活気に溢れ、江戸っ子の粋(いき)な文化を育てていったのです。

長屋

江戸の町人のほぼ70%が住んでいたといわれる長屋は、小さな家が2軒〜10軒連なった建物でした。入り口を入るとすぐ台所で、寝起きする部屋はたった4畳半。幅3尺。の路地の置くには井戸、トイレ、ごみためやお稲荷さんがあり、皆が共同で使っていました。入り口の障子には表札の代わりに住人の職業が大きく書いてあり、誰の家かすぐわかるようになっていました。

職人気質

江戸は消費が盛んな上、家事も多かったので職人は仕事に困りませんでした。しかしその生活は貧しく、「大工を殺すには雨が10日も降ればいい」といわれた程です。貧しいながらも威勢の良さが職人の誇り。「べらんめい」「なんてこった」などの言葉は職人が忙しいやり取りの中で生み出したもので江戸言葉として定着していったのです。