天平18年(1590年)徳川家康(とくがわいえやす)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の指示で江戸を本拠地としました。秀吉の死後、将軍となった家康は「天下普請」を発令。それまで関東の片田舎だった江戸の町は急速に整備され「大江戸」と呼ばれるまでに発展しました。江戸の町はじめじめした湿地帯だった為、埋め立て工事が盛んに行われ、水はけを良くする為の堀が作られました。今でも東京に「○○堀」という地名が多いのはこの為です。

江戸は世界一の大都市だった

江戸の町が整備され商業が活発になると、全国から人々が集まってくるようになりました。1600年頃には約15万人だった人口が、1800年には100万人をこえるまでになったそうです。当時のヨーロッパの大都市・ロンドンの人口が70万人程度ですから、100万人を抱える江戸は世界ナンバー1の大都市だったわけです。

江戸城も燃えた明暦の大災

人口が密集している江戸は家事が多く、大火と呼ばれる大規模な火事が90回以上も発生しました。中でも一番の大火事が明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火。江戸城の天守閣をはじめ大名屋敷160家、旗本屋敷770家、町家00町が焼け、11万人の死者が出たといいます。火事のたびに江戸の町は復興に向けて活気付き、経済の発展が進むという皮肉な一面もありました。

江戸幕府を支えた名将軍 改革の達人徳川吉宗

8代将軍吉宗は社会のひずみを正す為、享保の改革を実施。倹約を徹底して苦しかった幕府の財政を立て直した他、身分が低い武士でも優秀であれば高いくらいにつける制度を定めたり、産業の発展に役立つ学問を外国から取り入れたりしました。そして「目安箱」という投書箱を置いて町人の意見を政治に反映させる仕組みをつくりました。

武家屋敷町

日本橋を越えると、武家屋敷町。下町とは全く雰囲気の違う豪華な建築物が立ち並びます。この中で最も華やかだったのが、各種の大名が江戸詰めの際に住んだ上屋敷。大名に仕える家臣達の住む屋敷も抱えた大名屋敷は驚くほど広大な敷地を有してました。江戸の町は江戸の七割を占めてた壮大な武家屋敷町、武家地、寺社地、町人地に分かれており、このうち武家地は江戸の町の約70%もの面積を占めていました。ひときわ豪華だった諸大名の屋敷は、大名が住み藩の江戸事務所でもあった「上屋敷」、家族が住む「中屋敷」、広い庭園が主体の「下屋敷」に分かれていました。藩によっては、上屋敷の周囲に設けた長屋だけでは家臣の住む場所が足りず、別に長屋だけの屋敷を設ける場合もあったといいます。

江戸のパレード(参勤交代)

江戸が「武家の都」となったのは、参勤交代の制度によって各藩の大名と大勢の家臣達が江戸に上ってきた為です。大名の大半は1年毎に江戸と藩を行き来するスタイルをとっていましたが、関東周辺の大名は半年交代、北海道に領地のあった松前家は6年に一度というように、江戸と藩の距離によって様々なケースがありました。人数も1万石クラスの大名で100人ほど、102万石の加賀藩は4000人余りの大行列というように大きな開きがありました。

役割がたくさんあった町奉行書

江戸の治安を守っていた町奉行所は、裁判所だけでなく様々な顔を持っていた役所でした。江戸の北と南の2箇所に設けられ、長官である町奉行は「お奉行様」と呼ばれ庶民に親しまれていました。町奉行所は江戸の町と町人に関わる行政、司法、立法、警察、消防など全て管理した役所です。北町奉行所と南町奉行所の2つがあり、1ヶ月交代で仕事をこなしました。奉行所のトップである町奉行は江戸の知事と地方裁判所長、警視総監、消防庁総監を兼ねた大変な役目を果たしていたわけです。

与力(よりき)と同心(どうしん)は操作の花形

事件の捜査で中心となったのは、与力、同心という町奉行所の役人です。与力の式で同心が捕り物(容疑者を捕まえること)を担当しました。同心には仕事の内容によっていくつかの種類があり、事件の聞き込み捜査を行う「隠密回り同心」は身元がわからないように変装して犯人に近づいたりしました。テレビなどで同心の子分とされる「岡っ引き」は実は役人ではなく待ちの情報に詳しい町人でした。

捕物に欠かせない「三つ道具」

捕物で肝心なのは、犯人を生け捕りに摺ること。その為の工夫として特別な道具が使われました。
刺股(さすまた) 先がUの字になった長い棒で犯人の咽元に押し付けて足や腕を捻じ伏せる
突棒(つくぼう) 長い棒の先がT字型でとげが植えられ、犯人の袖を絡めて動きを止める
袖溺(そでからみ) ヤリ状の先に熊手のようなとげがあり、犯人の衣服をからめて動けないようにする。