江戸時代

日本の歴史上、260年もの間政権を維持した徳川幕府は、幕府開府以来幕末まで平和維持した。豊臣秀吉の死後、豊臣政権を存続させようとする石田三成と政権を握ろうとする徳川家康が慶長5年(1600)関が原の戦い、東軍の徳川家康が西軍石田三成を破り勝利し天下を取る。この関が原の戦いそのものが第一の徳川政権安定の基となった。
徳川政権は、家康が武力で勝ち取った軍事政権である。家康は秀吉と違い、永続的に政権を維持する事を考え、朝廷から征夷大将軍に任せられ鎌倉幕府以来の武家政権となる江戸幕府を開府する。しかし幕府を開府したものの大阪には豊臣秀頼がおり、その後大阪冬の陣・大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させ政権を盤石のものとした。
家康の永続的な政権維持の志向には、戦乱の世を無くし、平和な生活をという願いもあったようだ。江戸幕府は、統制支配力を強化する事によって長期間政権を維持したが、その過程で武家諸法度、禁中並武家諸法度、諸宗寺院諸法度、五人組制度、キリシタン禁止令といったような様々な法を定めていった。
幕府体制の基盤は、初代家康・2代秀忠・3代家光とでほぼ完成するが、その中にある武家諸法度(金地院崇伝が起案)は徳川秀忠の名で元和元年(1615)に出された元和令以降、7代将軍、15代家喜以外の12人の将軍の代替わり毎に出されている。叉3代将軍家光の時には、新しい統制策として林羅人に参勤交代を付加させている。なお、参勤交代は元来「挨拶」という意味があり、大名などが隔年で出府し、将軍に挨拶するというのが本来の意味。軍事政権としての性格を有しながらも徳川政権下の江戸時代は平和であった。それは基本的には大名が幕府に逆らえなかったからである。なぜ逆らえなかったか?これも一言で言えば、諸大名に対して幕府が圧倒的軍事力を有していたからである。一万石以上を大名と言ったが、この石高を単に経済力を示すものとみる事は誤りで元来石高はそのまま軍隊の動員力をあらわすものであった。(一万石につき200人)最大の大名である加賀前田家が通称100万石、ところが幕府は旗本領を含めて、通称800万石。これでは諸大名が逆立ちしても勝ち目はない。幕府は随分諸大名に無理無体な事をいったことがあるが、それでも大名が「いざ一戦!」とはいかなかったのは、戦っても勝ち目がないそんな戦いに自分もさることながら、家臣とその家族まで犠牲にするわけにはいかなかったからである。大阪の陣の折に、福島、浅野などの豊臣恩顧の諸大名が大阪方に見方をしなかったのも、この理由からと言っていいだろう。叉、参勤交代も軍役の変形とみる事が出来る。諸大名が幕府の命令で戦争に出ることも、江戸の上る事も基本的には同じ事であり、江戸幕府は戦国大名以来続いていた軍役による家臣統制を実施していたわけである。家康・秀忠・家光・五代将軍綱吉までの時期には多くの大名取り潰しが行われこの中には、一族の松平忠輝(家康6男)も含まれていた。家光の死後、4代家綱が幼少で将軍となるが、この頃には幕府組織の草創期は過ぎ、戦国動乱の記憶が遠ざかったこの時期以降、幕府の権威は高まりを見せていた。その余裕として5代将軍綱吉の時代には、政治に朱子学(儒学)の考えが取り入れられ政治方針は文治政治へと移行する。綱吉は、母桂昌院の為と、自分に男子が生まれなかった事が機縁となり、仏教を信仰し、湯島聖堂、寺社造営に金をかけすぎ、幕府財政を破錠をきたす。また憲法「生類哀れみの令」も綱吉の仏教思想から生まれたものである。以降、6代家宣、7代家継と継承されるが、家綱を最後に徳川直系での血筋は終わることとなる。幕府改革の時代には、御三家紀州藩の徳川吉宗が8代将軍となる。吉宗は、幕府の財政再建のため、享保の改革(足高の制、倹約令、公事方御定書、目安箱、相対済令、町火消し、小石川養成所の設立)を行う。徳川直系に近いと言う事で登場し、享保の改革で幕府財政は再建され、以後寛政、天保改革のモデルとなった。吉宗は幕府にとって中興の主とされているが、農民に対する米制度(年貢)について、定免法という方法で年貢を取った。以前は検見法といって、作物の出来高で年貢が決められていたが、定免法は、凶作でも一定の年貢を取り立てる為、それが農民を苦しめる事になり、百姓一揆・打ちこわしの原因となったのである。
十代将軍家治の時代になると、老中田沼意次が登場する。意次は賄賂政治で有名であるが、制作においては農業経済から、商業経済へ移行、株仲間を認可し税(冥加金)を徴収したり、長崎貿易の拡大、新田開発等を行った名老中であった。田沼意次以降、吉宗の孫になる松平定信が老中となり、寛政の改革を断行する。思想・社会統制(倹約令)農村制作を行い、幕府権威を高めようとしたが、これも政治的には成功するが、民の不満を拡大したに過ぎない。その後に11代家斉は自身で幕政を行うが、無策であった為に見るべき政策の改善はなく、世の中と幕府体制が腐敗していく。何もしなかったが、世の中が泰平であったと言う事であろう。しかしながら文化面ではこの頃に、江戸文化の完成期を迎える事となる。
天保12(1841)年には、老中水野忠邦が政治の改革を行うべく天保の改革を行う。これが江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)の最後の物となる。水野忠邦は、人返しを行い倹約令を出し、文化的動きも取り締まった。天保の改革は、享保・寛政の改革とは比較にならない風俗・文化の取り締まりを実施する。その実行者である江戸町奉行鳥居三(甲斐守)はそのために江戸の町人から「ヨウカイ」として恐れられ憎まれた。この頃諸藩においても積極的に政治改革と財政再建が行わ、成功した藩としては近年有名になった上杉鷹山の米沢藩があげられる。